ジブリアニメの海外進出に関するニュース
2005年02月21日(月)00時00分
2月21日付LA TIMES紙は、宮崎監督と押井監督と日本のアニメに関する記事を掲載しました。(記事を読むには登録が必要です)。以下はその抜粋翻訳ですが、鈴木氏や押井監督のインタビューは日本語→英語→日本語と翻訳されているため、オリジナルの発言とは異なっている可能性があることにご留意ください。
アニメ:単なるマンガではない対立
日本の宮崎駿と押井守は、米国のスタジオが理解することも無視することもできない文体論的戦争を遂行している
By Bruce Wallace
楽観的な老人、宮崎駿
日本でもっとも有名なアニメーターは、常に彼のキャラクターたちを痛みに満ちた世界に落とす。魔法の薬が少女を老婆に変え、母親が娘を裏切り、戦争が国土を焼き、冷笑的な大人が「泣き方を知っていたことすら忘れた」世界である。しかし映画が終わるまでには、主人公と観客を希望で包んで終わる道を、宮崎はいつも見つける。
「ハウルの動く城」においても、64歳の監督はそれをした。昨年11月の公開(米国での公開は今年の夏に予定されている)以来、この映画は記録的なペースで観客を集めている。「ハウル」は2002年に米国で公開されアカデミー賞を受賞した「千と千尋の神隠し」以来の宮崎映画で、宮崎は再び精神的に病んだ世界への解毒剤となる映画を創った。
実のところ、それは愛である。そしていつものように、早熟な子供たちが救済への道を拓く。
「ハウルの動く城」は、宮崎がウォルト・ディズニーに比較されるようになった理由である、彼の心温まる物語に付け加わった新しい一作である。明らかに、日本の観客は(宮崎映画を)いくら見ても見足りないようだ。「ハウル」は興行的に大きな成功をおさめており、公開後最初の二日間で110万人、先週の日曜日までに1300万人の観客を集めた。
しかし宮崎の最新作が成功をおさめている現在は、同時に宮崎が芸術のスラムからメジャーへと引き上げるためにとても多くのことをなした芸術形式である日本のアニメにとっての試練の時でもある。日本以外の世界ではアニメのグローバルなかっこよさを祝っているにもかかわらず、アニメは創造的ピークを過ぎたのではないかと考える人も日本にはいる。
「アニメーションスタジオは生き延びているし、アニメーターたちは以前よりいい給料をもらっている。しかし新しい作品の質は向上していない」と押井守は言う。押井はアニメのよりダークな側面で評価を得た監督であり、(押井の映画の)混沌とした世界では世界の終末はならず者のコンピューターによって簡単にもたらされるように見える。
「表面上は(アニメ業界は)栄えてます」と53歳の押井は彼の東京のスタジオで言った。「しかし実際には、ほとんどまったく新しいものがない」 押井のアニメは宮崎のファミリー向けアニメよりも先鋭的、というか暴力的である。宮崎がディズニーであるとすれば、押井はタランティーノの役を喜んで引き受けている。
漫画家からアニメ監督になった大友克洋を含めて、この三人は日本のアニメーションのエスタブリッシュメントとも呼べるものを形成している。三人とも熱心なファン待望の新作を昨年公開し、それはアニメのセレブレーションであるべきであった。
しかしその代わりに、彼らの映画を見て育った大人の観客に対して新しいものをアニメはまったく提供できないと、ベテランの監督やプロデューサーたちはぶつぶつ言っている。
押井が宮崎について語ることを聞いてみよう:
「監督の立場から見て、宮崎から新しいものはまったく期待できない。彼はかなり年寄りのようで、今はほとんど引退している」
また新作映画の「スチームボーイ」が3月に米国で公開される大友について、宮崎の長年の協力者である鈴木敏夫は、「大友さんの映画はいつも同じテーマ、子供が社会や悪に対して戦うというテーマです。大友さんの考え方はどちらかといえば古いですね」と言う。(大友はインタビューを拒否した。)
これはコービー対シャック対フィル(訳注:米国プロバスケットボールチームの監督と選手。チーム内でゴタゴタがあったらしい)のような対立ではない。しかし業界内からの批判は、グローバルなプラットフォームを得たのに日本のアニメーターたちは世界に対して語るべき深いことを持ち合わせていないという居心地の悪い感覚があることを示している。
「日本のアニメの悲劇は、あまり真剣ではないことだ」と鈴木は言う。
血はどこに?
「宮崎さんは頭の中では日本を破壊したいと思っていると思う」とだぶだぶのジーンズをはいた押井は彼の東京近郊のスタジオで語った。
「でも自分たちの世代がひどい社会を作ってしまったとわかっていても、宮崎さんは子供たちがよりよい世界を作るという希望を持っている。だから宮崎さんは家族や子供たちが楽しめる映画を作るんです」
「そして宮崎さんが本当に作りたい映画―たくさんの血が流れる、血まみれの作品―を作るまでそれは変わらない」 血については押井はわかっている。クエンティン・タランティーノが「キル・ビル1」の幕間用に10分間のアニメを製作する日本のアニメーターが必要だった時、彼は押井に頼み、押井は虐殺された血まみれ死体で満ちたアニメを制作した。(訳注:プロダクションI.G.は確かに「キル・ビル」のアニメパートを制作していますが、押井監督はかかわっていなかったはずです)
「自分は現実では模範的市民だと思いますが、頭の中ではまた別です」と押井は大きな笑みとともに言った。「誰しも何か悪いことをすることを妄想する。僕は時々東京のあらゆるビルにミサイルを撃ち込みたくなる。だからそういう映画を作ります。僕は自分が思っていることについて映画を作ります。ミサイルがビルに打ち込まれる、というような」
「でも宮崎さんはそれを隠している。日本を破壊したいという情熱を持っているのに、宮崎さんは自分が本当に作りたいものを作っていない」
押井はサイバーパンクと呼ばれる未来的なアニメのスタイルの育成者であり、昨年日本では大きなファンファーレとともに、米国ではもっと慎重な批評家からの推薦とともに公開された「イノセンス」によって、アニメファンの神経系統はいまだに揺さぶられている。
(「イノセンス」あらすじ中略)
押井は反宮崎である。二人の監督の作品のテーマには、「オズの魔法使い」と「ブレードランナー」の間ほどの共通性しかない。そしてそれが米国では宮崎作品のほうが受け入れられている理由かもしれない。米国では宮崎は(当然)ディズニーと提携している一方で、押井の映画は批評家には賞賛されているが宮崎ほど多くの観客には受け入れられていない。
「アニメーションは子供たちのためのもので、だからハッピーエンドであるべきだと宮崎さんはいつも言います」と監督の創作パートナーであり、宮崎のメディアインタビューのほとんどを取り扱っている鈴木は言う。「日本の他のクリエイター、特に映画監督や漫画家や作家は、みんな終末について描いています。宮崎はもっと平和的で、愛についての映画を作るから際立っているんです」
確かに、子供を映画に連れて行くなら、「イノセンス」ではなく「ハウルの動く城」を選ぶだろう。(「ハウル」あらすじ中略)
コンピューターがすべてを征服したハリウッドのアニメーションとは異なり、宮崎の作品はいまだアニメーターたちの鉛筆に頼っており、それが彼の映画のスタイルを形作っている。その結果は豪華で、時には混乱するような、イマジネーションのダンスである。
日本では「ハウルの動く城」の公開は映画界のイベントであった。11月20日に公開されたにもかかわらず、映画は2004年の日本の興行成績トップであり、ほとんどの批評家が石を投げるのをためらうような絶対的な力である。
「人々は表立っては宮崎監督を批判しない」と日本のトップ映画雑誌、キネマ旬報の元編集長である白井佳夫は言う。「地位を失うのが怖いので、彼らは自己検閲してしまう」宮崎のスタジオから切られるのが怖くて、子供たちを困惑させる理解しにくいプロットといった欠点を日本の批評家は指摘できない、と白井は主張する。
確かに、「ハウル」のストーリーラインはいつも一貫しているわけではなく、とても陽気というわけでもない。魔法使いの魂を巡る善と悪とのよじれた戦いがあり、戦争の状況は映画の通奏低音となって時折フルクレッシェンドでスクリーンに現れる。宮崎は彼の愛する風景を焼き吹っ飛ばす恐ろしい飛行船を描く。
しかしすべてが最後にひっくり返る。
(宮崎にとっては)珍しいキスによりソフィーとハウルは開放され、お互いの腕の中で風に向かって舞い上がる。
スタジオも対照的
押井と宮崎に共通点があるとすれば、それは日本のアニメの賢人の一人である鈴木である。彼は日本のアニメ産業に広く影響を与えている:鈴木は押井の「イノセンス」と宮崎の「ハウル」の両方をプロデュースした。鈴木は二人とも友人だという。
彼のダークなアニメと異なり、押井は陽気でのんびりした人間であり、「一方宮崎さんの性格はとてもペシミスティックだ」と鈴木は言う。映画を作っているときはハッピーエンドにするために「宮崎さんは考えにブレーキをかけなくてはならない」
二人の監督のスタイルの違いは東京郊外にある二人のスタジオにも表れている。宮崎のスタジオジブリは磨かれた木の床と最先端技術の制作室を持ち、組織的に忙しく立ち働く音に満ちて動いている。しかし押井のプロダクションI.G.では、若いアニメーターたちは混沌とした大学の寮のような小部屋で働いている。
この地域にはTVや映画のアニメ制作スタジオがたくさんあり、昨年の日本のテレビの視聴率トップ10のうち6本がアニメという、(日本人の)アニメ熱を支えている。こうした大量のアニメが米国の市場に押し寄せているが、一貫したメジャーマーケティングと力を持つメジャーな作品がないことがアニメによくない影響を与えていると業界では見ている。
ディズニーが幅広い観客に向けてマーケティングしている宮崎映画を除けば、少数のマニア向けに高いセルDVD市場であまりにも多くの作品が競合しているために、アニメの売り上げはダメージを受けていると、アナハイムの日本製アニメーションをプロモーションする会のトゥルーリー・カラハシは言う。
その結果、マンガの米国での売り上げは急騰しているにもかかわらず、アニメは米国市場では頭打ちになっている。とはいえ、宮崎や押井のような有名監督は、アニメにおけるスピルバーグやルーカスだとカラハシは言う。押井は自分自身を二人のうちでは反抗者だと見ているが、反抗は大抵彼の頭の中にとどまっている。「取り締まる側よりはテロリストのほうに近かった」と言う押井は、1970年代は左翼の過激派であったかもしれないが、現在彼のアニメの主人公は対テロリスト部隊の警官である。
押井もまたストーリーをわかりやすくするために譲歩しない。バトーの哲学的な旅についていくためにはかなりの集中が必要である。
「僕は絵を作るのはうまいんですが、編集されすぎた映画は好きじゃない」と押井は言う。「僕らは観客を楽しませなくちゃいけないと信じられている。でももし「イノセンス」がわかりにくいなら、それは僕が観客にレベルを上げて、あるテーマについて考えてほしいからです」 彼の脚本がハリウッドの重役たちを困惑させたのも無理はない。押井を連れて、プロダクションI.G.の社長の石川光久はワーナー、フォックス、そしてドリームワークスを回った。「誰も理解できなかった」とストーリーを提案したときのことを思い出して石川は言った。
ドリームワークスでも、ジェフリー・カッツェンバーグは脚本が気に入らなかった。しかし彼は押井が作った二分の予告編のビジュアルが気に入り、石川によれば「押井の提案を受けながら」脚本家をこちらで用意すると申し出た。
「あれは重要な瞬間でした」とプロデューサーは言う。「彼らは僕らに『米国で何が売れるか自分たちは知っている』と言うんです。それで僕は板ばさみです。押井さんの側につくべきか?金を選ぶべきか?」 結局押井の脚本は残り、カッツェンバーグは映画を配給する契約を結んだ。
「イノセンスは僕にとっても理解しにくい。でも僕は押井さんの才能を信じています。もしそれをアメリカの観客のために薄めてしまったら、もうサイバーパンクじゃなくなってしまう」
成長の痛み
きちんとしたプロットとすっきりしたエンディングにこだわるのは西洋の問題なのかもしれない。日本人は宮崎の混乱したプロットや押井のシュールレアリズムにそれほど困惑していないようである。
「西洋のインタビュアーたちはいつも『ゴーストって何ですか?』って聞くんですよ」と押井は笑いながら言った。「日本人はゴーストはどこにでも、PCにも車にもいるとわかっている。日本のインタビュアーたちが知りたいのはなぜバトーは犬を飼っているかということです」
ならばこの(アニメに対する)自己信頼のなさという危機は、東洋から出て、西洋の期待に沿うためにそのとがったところを削ぎ落とす用意がない、アニメという芸術形式の成長の痛みなのかもしれない。宮崎のソフィーが中欧の街の広場を走っている姿に見られるように、(アニメは)外見上は国際化されているように見える。しかし戦後の日本はいつも西洋から輸入したものを自分のものにしてきた。宮崎と押井は日本の映画を日本のテーマで作っている。そして彼らは主に21世紀の日本のストレスに対処している観客のために作られている。
「現在の日本は一般に希望がありません」と鈴木は言う。「だから宮崎さんの映画が人気があるんです。彼の映画は観客に生きるエネルギーを与えるんです」
「どんな時代に生きていても、美しいものは存在すると宮崎さんは言います。そして映画の中で破壊があっても、最後には宮崎さんは希望を描くと観客はわかっているんです」
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