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ジブリアニメの海外進出に関するニュース

ポニョ評@TIME誌

2008年09月03日(水)18時41分

米国TIME誌はRichard Corlissによる「ポニョ」の批評を掲載しました。

ハリケーングスタフがキューバを破壊しルイジアナを襲おうとしている一方で、ベネチア映画祭のサラグランデ劇場のスクリーンにはとても可愛い津波が映っていた。アニメーション映画「崖の上のポニョ」では、ふくれあがる波はイルカの形をとり、日本の海岸の村が沈んでも誰も死んだり怪我したりすることなく、ただ楽しく避難するだけだ。海の世界が上がってくるのは人類に対する反乱ではなく、優しい警告的な指示である。尊敬を持って海に接すれば、海は食べ物と驚きを与えてくれる、とこの映画は言う。

そのような考えはインドネシアの津波の数万人の被害者やカトリーナ(訳注:2005年に米国を襲ったハリケーン)によって避難させられた同じく大勢の被害者には受け入れられないかもしれない。しかし、ディズニーが来年米国で公開することになっているポニョは、子供のための寓話であり、子供達には希望を貰う権利がある。それに、「もののけ姫」の森の神や「千と千尋の神隠し」でヒロインの両親を豚に変えた風呂屋の幽霊など、自然の力のイメージを恐ろしいものというよりも不思議なものとして創造することこそが、この映画の脚本家・監督であるアニメの神、宮崎駿の天才的なところである。宮崎のファンタジーの王国では、人は、悪役と推定される者でさえ、破滅するよりも変わることが多い。

(日本での興行成績について略。米国でももののけ姫や千と千尋が劇場公開されたという話に続いて)

米国の観客はこれらの映画と2004年の「ハウルの動く城」で宮崎を知っている。「ハウル」のキャラクター(と彼らの住処や乗り物)はジョエル・ホッグソンのGizmonics Institute (訳注:米国のテレビ番組「ミステリーサイエンスシアター3000」に出てくるマッドサイエンティストの研究所)の頭から飛び出してきたかのように見える。宮崎の映画を見たことがない人も、オスカーの夜に彼の名前が呼ばれるのを聞いたことがあるかもしれない。宮崎は「千と千尋」でアカデミー賞長編アニメーション部門賞を受賞し、「ハウル」もこの部門でノミネートされた。

たまたまこの三作品での宮崎は叙事詩モードである。多重なプロットを持ち、キャラクターの数が多く、そしてかなり長い(どれも少なくとも二時間以上)これらの作品を、受け入れるより見る気力がくじかれる視聴者が多い。しかし80年代には、この監督は単純で同時に洗練された子供向け映画を作ることに満足していた。二人の孤児が空飛ぶ島を探す「ラピュタ」、もののけ姫の森の精に比べればもっと飼い慣らされた森の精に二人の少女が出会う「トトロ」、13才の魔女が自分のビジネスを始める「魔女の宅急便」。ディズニーによってDVDで発売されたこれらの映画は多くの米国の子供たちを楽しませてきたが、それは宮崎が大陰謀をめぐらす巨大な脳以上の存在であることを証明している。心の中では、彼は子供―正確に言えば、小さな女の子なのだ。

そして「ポニョ」においては、小さな女の子になりたがる小さな魚である。この「人魚姫」に大変大まかに基づいた話、というより昔読んだアンデルセンの物語の記憶によって引き起こされた夢では、ポニョとその大勢の妹たちが宮崎が考え出した海を泳いでいる。監督は普通の漫画に使われる見かけの派手さにはあまりこだわらない。彼はブルーグリーンの色彩と生き物たちのやさしいうねり、そして久石譲の容易には忘れ難い元気な音楽を信頼して、水の魔法の杖を振って物語の舞台を作り上げる。

(ストーリ紹介略)

しかしポニョのパパ、フジモトは普通の親ではない。 彼は、少なくともこのシーンでは、海の王であり、かなりの洒落男である。やせた顔、ぴったりした赤白ストライプのジャケット、流れる海草の髪と始終やつれた外見は、彼が水中のロックスターであることを示している。深海のロン・ウッドとでも言うべきか。フジモトは自身を「元人間」(明らかに、彼は海転換手術(訳注:sex-exchange性転換とseaをかけているらしい)を受けている) と呼び、更正した哺乳類としての傲慢な熱意を持つ。 たくさんの娘たちを統括している時のほかは、彼は魔法の液体を合成している。その液体は人間が汚染した海をきれいにできるのだ―もしポニョが偶然それをばらまいてたくさんの問題を引き起こしさえしなければ。

「ポニョ」は夫の留守中に二人の子供(うち一人は部分的に魚である)を育てる妻の感情の爆発をよく描いている。しかし最後、嵐によってコウイチの命が危険にさらされると、映画は彼のことを忘れてしまう―おそらく彼が違法の捕鯨なんかをしているからだろう(訳注:念のため、映画にはそんなシーンはありません)。フジモトの妻のグランマンマーレは荘厳な海の女神であり、完璧な姿勢とインド映画の女王のような額の宝石を持つが、映画の後半になるまで出てこない。宮崎はまた、津波を創造するが、彼がそれをどんなにすばらしく害のないように描こうとも、自然の破壊的な力を思い起こさずに入られない。アメリカのアニメーションの基準で言えば、これらはプロットの穴であり、ピクサーやディズニーやドリームワークの人たちなら午後のブレーンストーミングでその穴を埋めるだろう。しかしそういう頭のいい人たちにとても尊敬されているにもかかわらず、宮崎はこういった人種ではない。まず、かれはフルCGを使ったことがない。彼はウォルト・ディズニーにより打ち立てられた二次元の漫画スタイルに固執しており、彼は頑固さと繊細さをもってそのスタイルを時代錯誤な完璧さにまで高めた。 ポニョはすべて手描きである。「アニメーションとは鉛筆と描く人間の手が必要なものだと思うんです」と宮崎はベネチアでの記者会見で語った。「だから僕はこの作品をそういうふうに作ろうと決めました」

もっと重要なのは、彼の映画はハリウッドの論理には基づいていないということである。彼の映画は子供向けの話であり、小さな子供たちは脇役がいないとか、ましてやストーリーとニュースとの関連なんて気にはしない。彼らは言葉と絵を通して別世界にうまく連れて行って欲しいのだ。この映画で宮崎はそれをした。彼は子供の秘密の言葉を学び、まるで5歳の天才児が夢中になって聞いている友達に語るように語っている。そうやってアニメのベテランはアニメーションをアニメの魔法(ani-magic)にしたのだ。
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